昭和四十五年九月二日
x御理解第九十五節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ、神を 商法にしてはならぬぞ」
世には神を売って食う者が多い、と、立ち行く事の為に神を売るとゆう事、生活の為に、神様を売るようないき方の信心もあるけれども、此方は食う為に拝むのではない、此方は銭金では拝まぬとゆう神を商法にしてはならぬとゆう事は、生活の事の為に、宗教があっはならない、とゆう訳なんですね。
金光様の御信心は、そうなんですけれども、例えば、大して人は助からない教会が、本当に、その教会が維持していく事の為だけに少しばかりの信者がある、と云うような教会も沢山有ります。
これなんかは矢張り、神を売って食べておる、と云われても仕方がないと思います、世には神を売って食う者が多い、と、金光大神は、そうゆう事はなさらなかった。それこそ、人が助かる事さえ出来れば、とゆういき方で、人が段々助かっていったと、
ところが、成程金光教の信心はそれが、道のたて前だといくら、例えば良い信心だ、宗教だと云うても、只、教会が維持していく事の為だけに、例えば教会に、五人なら五人の家族があるとする、その五人の家族が食べてゆける事の為だけに、もし、教会があったとするなら、それは、神を売っては食わんと云うても、只食う事の為だけの為に、教会があるんだったら、これは神を商法にしても、同じような見方をして、大いに反省し、大いに改まってゆかなければならない、と思いますねえ。
神を売って食う者、生活をしてゆくとゆう事、又、こゝの九十五節を頂くたんびに、頂く例ですけれども、いくら、いくらなからなければ拝んでもらえない、いくらいくら、とゆう風に、例えばお経料がいくらとか、祭典をする費用がいくらとか、そうゆう風に例えば、結婚式を頼むと、結婚式の費用がいくらでなからなければ、結婚式は出来ない、何がいくらとゆう事が、ちゃんと決まっておる。 とゆうような、そうすると、お金が無い者は、御先祖様にお経のひとつも上げてもらえない、とゆうような脱しておるような宗教は矢張り、神を売って食うとゆう事にも当てはまる、といったような事を申しますねえ。
私は、今日申しましたような事も、やはり九十五節に教えておられる事ですが、今日はそうゆう意味ではない意味での、神を売って食うとゆう、 此方は銭金では拝まん、神を商法にしてはならんと仰る、ようなところを、頂いてみたいと思います。
お道の信心には奇跡が少ないと云われております。
どこでも宗祖、教祖と云われる程しの方が、道を立てられるに当っては、大変な、それこそ、びっくりするような奇跡が起っております。その不思議な、それこそ目を見張るような奇跡に、云うならつられて、その信心に入るとゆうようないき方なんです。
キリスト教あたりでもそうですねえ、十戒とゆう映画をご覧になった方々なんかは、あれは映画じゃない事実、聖典の中に、そうゆう奇跡とゆうものが残っておるのですけれども、本当に、只、普通では考えられないような奇跡が、矢張り、キリストはそうゆう奇跡を起せれる程しの霊能者であった。
けれどもね、それが言わば売り物、仏教なんかでもそうですねえ皆さんはあゝゆうお芝居を、御覧になった事はないでしょうか、
「肉つきの面」なんてゆうお芝居がありますよねえ、嫁と姑の大変な仲の悪い、嫁が大変熱心に仏教の信心をなさる。
その日も上人様が見えるとゆうので、お話を聞きに、それを姑親のおばあさんが非常に嫌われる。
あげんもう、仏様仏様と云うてから、毎晩お話を聞きに行くから行かんようにと云うて、夜中に嫁の帰りを待ち受けて、面をかぶって、鎌を振り上げて、嫁を殺そうとする訳です。
そして帰ってみて、その面をとろうとしたところが、面がとれなかったとゆうのである、嫁が帰っておばあさんに、ナムアミダブツと唱えて下さい、… でないと極楽行きが出来ません、と云うて、改心をせまる訳です。
それで、初めて非を悟って、ナムアミダブツを初めて唱える、そしたら、その面がとれたけれども、その面には肉がついておる、とゆう肉付きの面。
そうゆう例えば奇跡を、言わば生むのです、あらたかな信心じゃある、とゆう訳で、信者を獲得していったと、ゆうような奇跡を、私はこれなんかも矢張りですね、ひとつの神を商法に使っている、丁度みせもの、哀れなのはこの子でござい とゆうようにですねいわゆる、呼び込みが申しますでしょう、こうゆう珍しい見せ物があると云うて、札を取ってそれを見せるようにですね。
私はそれだけでね、例えば奇跡、その奇跡によって、例えば病人が治ったとか、奇跡的な事でご利益を受けたと、ゆうような事がです、もし看板であるとするなら、それは私はある意味合いで、神を商法に使っているようなもんだと思います。
人間としての生き方とゆうものが、それを境に、有難い事に展開してこない、只、六字妙号を唱えれば、こうゆう奇跡が起るとか、とゆうような、云うなら奇跡を売り物にする宗教、それは、まず神を売っているのも同然だと思う。
その点を、そんなら教祖の場合にしてみますとです、成程不思議な不思議なおかげを受けたとゆう事は、沢山やっぱ有りますけれども、決してそれだけが売り物でないとゆう事。
教祖様は、只々、助けを求め、又は教えを求めて来る者のみに、只々念ごろに、天地の道理をお説きになり、人間の正しい、信の道をお説きになり、信心は日々に改まる事が第一だ、と教えられた。もうこれは、徹頭徹尾、懇ろにその事だけを教えられた。
教祖様のお徳によつて、スパッと死人がよみがえった、盲がお徳によって眼があいた、とかゆうようなものではなくて、いわゆる此方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かる道とおっしゃる。
例えて申しますと、例えば、成程奇跡的なおかげを、こゝの場合でも随分、奇跡と思われるようなおかげを頂いておられます、それはどこ迄も、いわゆる神の権威にかけての私は、表れであって、それで済んだとゆうのじゃない。
神様が こうゆうおかげも下さる事が出来るとゆうおかげ、そうゆう働きを持ってござるとゆう事を示して下さる、けれども、そこからが違う、そこから私共が、言わば日々の改まり、又は本心の玉を研く事に、精進する事を、もうこれは、それを強調され、それを強いられるのが金光教の信心だと、こう思う。
だから、どうでも人間が変わらなければいけん、その人間が変わるところから、新たな展開がなされてくる、新たな道が開けてくる人と人とのかゝわり合いとゆうものが、新たに生れてくる、人間関係の上に、私が変わるとゆうところから、人間と人間との、言わば新しいかゝわり合いが、そこから生まれてきて、いわゆる。あいよかけよの道とゆう事が、ハッキリしてくる、自分が変わった、自分が助かった、ところから家内が助かった、子供が助かったと、自分のかゝわり合いのある人間が、全て助かっていくとゆう助かり方、成程、話を聞いて助かる道である、祈念祈祷で助かるのではない、云うなら、祈念祈祷で助かるとゆうようなのは、ある意味で私は、今日のこの九十五節から頂くとです、それはどんなに考えてもおかしい、言わばそれは神を商法に、例えば奇跡を売り物にしておる宗教、これは、そんなら、金光教も含めてですよ、とゆう事だけならば、私はこの九十五節の御教にもとると、こう思う。
そこで私共が、どうでも道のたて前とゆうのがです、話を聞いて助かるのでございますから、成程、初信の時には、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせと、こう、理解申して聞かせる事を後にしておられます。
今も申しますように、願う氏子におかげを授けと、そこに、成程不思議な、神様のおかげとはこんなもんだろうか、とゆうようなおかげを、表して見せておって下さるけれども、すぐその次には、理解申して聞かせと云うておられる。
だから、願う氏子におかげを授けと、云うておられるところは、これは矢張り奇跡でありましょうねえ、だから、それだけであったら、そんなら金光様の御信心も、矢張り神を商法に使うような事になる、奇跡を、言わば売り物にするとゆう事になる。
けれども、その次の理解申して聞かせとゆうところ、理解を受けて、成程そうであったか、自分の思い方、考え方、ものの見方が間違っておったと、気付かせてもろうて、自分自身が変わるところから、新しい道の展開、新しいおかげの世界が、自分が変わる事につれて開けてくる事を、教えておられる。
もうこれは徹頭徹尾、教祖はそうゆういき方をなさって、お道の信心が開けてきた。
ですから皆さん、金光様の御信心頂いたら、だあれも、お話を頂かなきゃならんとゆう事です。参りよれば奇跡的なおかげが頂けるじゃろうと、参りよりゃ棚からぼたもちのごたるおかげを、受けられるかもしれん、とゆうようなね、甘い考え方はまずまず捨て切ってしまって、本気で教えを頂き、教えに取り組み、自分自身が変わるとゆう事にです、楽しみと喜びを感じさせてもらういき方に、ならなければならない。
そこにはもう、いわゆる自分自身とゆうおかげの受けものが、段々出来てくる、大きく、又は清らかに、出来てくればくるだけに、有難いおかげが、大きいおかげがそこに約束される。
そうゆうおかげをです、私共が頂いていかなければならない、そうゆう信心だと、分かって頂かなければならんと思う。
今日、私は奇跡だけを、もし売り物とする宗教があるなら、そんなら祈念祈祷だけで助かるとゆうような、拝んでもろうて助かったとゆうような宗教があるなら、それは、それを看板にしておる商売だと、私は思います。
けれどもね、人間本来の姿、生れ乍らにして、神の氏子としての自覚を、よびさまし、起させて、神の氏子としての生き方を教えてもらい、その生き方に神習わせてもろうて、いくところから、私共の幸せにつながってくると思う、云うのですから、これは商法ではない。 云うならば、商売の言葉で云うならば、教えを売っておる訳なのです、売っておるとゆうと、語弊がありましょうけれども、言わば教えを説く訳です、人間の本当の幸せの道をです、祈念祈祷で幸せにしようと云うのじゃない、只奇跡的なおかげだけで、人をつるような事でです、人を集めると、ゆうようなものではなくてです、どこ迄も徹頭徹尾、理解申し聞かせと仰っておられる。
理解を聞かしてもらい、いわゆる天地の道理も聞かせてもらい、天地の御恩徳を分からせてもらい、そこに神恩報謝の心が生れてきて、日に日に改まっていき、日に日に研いていく事に焦点を置いてそこから自ずと、人間の幸せの道が展開してくるとゆう、そうゆう生き方を、教祖金光大神は教えられたり、そうゆう道を立てられたり、だからどうでも私共は、そうゆう道にのっとっての生き方が、どうしても出来なければ、おかげにならない事をひとつ、分からしてもらわなきゃいけんと思います。
とりわけ、人間関係の問題、自分自身が変わるとゆう事から、新しい人と人とのかゝわり合いが出てくる、全然今迄とは違った、かゝわり合いが生れてくる。
そうゆうかゝわり合いを作って、おかげにしていく、これは、だから物だけではない、金でも、一切の難儀の解決とゆう事がです、自分が変わるとゆうところから、新たな自分のおかげの場とゆうものが頂けてくる。
しかもそこにはです、いわゆる、あいよかけよと云われる道が、ハッキリしてくる訳であります。
金光様の御信心は、これこれのお金がなからなければ、お参りが出来ん、拝んではもらえん、お取り次を願わん訳にはいかん、とゆうようなものではない。
とゆう事は、皆さんも御承知の通りであります。
だから、そうゆう事だけが、そんなら神を売るとゆう事ではない、それとは反対の事である場合を、こゝでは神を売って生活をする、神を売って食うていくとゆうような意味合いだけではなくて、今日はね、私は、とりわけ奇跡、只おかげだけ、ご利益だけを売り物にしておる宗教が、あるとするなら、それは神を商法にしてるのも同じだと、人間本来の生き方をさし示し、教え、徹頭徹尾、理解申して聞かして下さって、、私共が変わるところから、新たなおかげの展開が、あると云うのが金光教のいき方だと、皆さんもひとつ、承知して頂かなければ、自分自身が変わる事にもつとめません。
只、願っておかげを受けた、只、御祈祷をしてもろうてようなった、とゆうような宗教ではないとゆう事を、分からしてもらわねばならないと思います。
そこから又生れてくる、奇跡とも思われる程しの、有難いおかげがですね、限りなく頂けていけれるような信心、そうゆう信心を、教祖の神様はお説きになられた、又、そうゆう道を立てられた。
成程、お道の信心には、奇跡がないとゆう事を云われます、言わばゆえんであります。
それは、奇跡を売り物にはされなかった、人間が本当の真実の助かりを、願われ 説かれた、あの世、この世をかけて、おかげの頂けていく道をです、こんこんとしてお説きになった。
言わば、御教とゆうものがです、お道の信心であるとゆう事を、お互い承知しておらなければならんと、思うですね。 どうぞ。